札幌地方裁判所 昭和44年(わ)407号 判決 1970年5月27日
被告人 千葉貴是
昭二〇・一・一生 タクシー運転手
主文
被告人は無罪。
理由
一、本件公訴事実
本件公訴事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四一年七月三〇日午後五時ころ、大型貨物自動車を運転し、助手葛西政明(当時一七年)の誘導により、札幌市白石町中央一条三丁目先路上から同三丁目所在の釧路阜頭倉庫株式会社札幌営業所第三倉庫内に後退しようとした際、同倉庫入口は幅員三・三メートルで、ハンドル操作をあやまれば進入路をはずれて車体後部を倉庫入口に、もしくは右進入路をさけて誘導にあたつている右葛西に、接触させる危険があつたのであるから、これを防止するため、右葛西を運転席から確認しうる位置で誘導させるか、もしくは、右進入路をはずれないよう後方を確認しつつ進行し、安全に進入しえないときは直ちに停止して、進行方向を修正すべき業務上の注意義務があるのにかかわらず、これを怠り、同人が運転席から見えない位置である自車の後方で誘導しているのに慢然時速約一キロメートルで後退し、かつ、ハンドル操作がおくれて、安全に右倉庫に進入しえない状況になつたのにかかわらず直ちに停止する措置をとらなかつた過失により、右進入路外である同倉庫入口左側枠にいた右葛西を自車後部と右入口左側枠との間にはさみつけて強圧し、右肺部損傷等の傷害を与え、よつて同日午後六時四〇分ころ同市南二条西一一丁目伊藤整形外科病院において同人を右傷害による気道閉塞により死亡するにいたらせたものである。」というにある。
二、事故の発生
被告人の当公判廷における供述、被告人の司法巡査および検察官に対する各供述調書、証人加藤健二、同佐藤隆三の各証言、司法巡査作成の実況見分調書、当裁判所の検証調書、司法警察員作成の検視調書、医師藤沢純爾作成の死体検案書を合わせ考えると、被告人は、松岡満運輸株式会社の自動車運転手として自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和四一年七月三〇日午後五時ころ右会社所有の大型貨物自動車(以下、本件事故車という)を運転し、助手葛西政明(当時一七年)の誘導により本件事故車を後退させ、札幌市白石町中央一条三丁目釧路阜頭倉庫株式会社札幌営業所第三倉庫内に進入しようとした際、同倉庫入口に向かつてその左側のコンクリート製の枠(以下、本件倉庫入口左側の枠という)と本件事故車の後部との間に葛西政明をはさみつけて強圧し、同人に対して右肺部損傷などの傷害を与え、その結果同日午後六時四〇分ころ同市南二条西一一丁目伊藤整形外科病院において、同人を右傷害にもとづく気道閉塞により死亡するにいたらせたものであること(以下、本件事故という)が認められる
三、被告人の過失の有無
そこで、本件事故発生についての被告人の過失の有無について検討する。
1、前掲各証拠に司法巡査作成の自動車検査証の謄本を合わせ考えると、次の各事実を認定することができる。
本件事故の発生現場である札幌市白石町中央一条三丁目先道路(以下本件道路という。)は、本件事故当時、ほぼ東西にのびている幅員約一二メートルの非舗装道路であり、同所所在の釧路阜頭倉庫株式会社札幌営業所第三倉庫(以下、本件倉庫という。)は、本件道路の北端から約四メートル北寄りの位置に、その入口を本件道路に面して建てられている。本件倉庫の入口は幅が三・三メートルあり、その左右両側にはコンクリート製の幅約〇・五メートル、奥行き約〇・五メートルの柱状の枠がとりつけられており、この枠は右の奥行き分だけ本件倉庫外壁より本件道路に向かつて突き出している。そして、本件事故当時、本件倉庫入口の右側および左側には、それぞれ本件道路の北端に沿つて、幅約一メートルの排水溝がもうけられ、これら二つの排水溝は本件倉庫入口正面において約五メートルはなれており、さらに本件倉庫入口に向かつて右側の排水溝の入口寄りの端には電柱が設けられていた。ところで、本件事故車は、車体の長さが七・六四メートル、車体の幅が二・四五メートルの大型車両で、運転手席は進行方向右側に設けられており、本件事故当時本件事故車の荷物台には貨物が積載され、かつ全面にわたつて幌がかけられていたため、運転手席後部の窓を通して車体の後方を見ることは不可能であつた。
被告人は、前記日時に、このような本件事故車を、葛西の誘導により、本件道路から左旋回しつつ後退して本件倉庫内に入れるため、まず本件道路の南側に、車体の前方を東に向け、本件倉庫とほぼ平行に本件事故車を停車させた。そして、被告人は、本件倉庫入口に向かつて右側に葛西を配置してその付近の安全を確認しつつ本件事故車の後退の誘導をさせ、被告人自身は運転手席側の扉を開けて身を乗り出し、本件倉庫入口に向かつて左方付近の安全を確認しながら、葛西の「オーライ、オーライ」という声の誘導により左旋回しつつ時速約一ないし二キロメートルで本件事故車を後退させた。このようにして、本件事故車の後部が本件倉庫に近づいたころ、葛西は本件倉庫内に入つてそれまで同様に規則正しい間隔をおいて「オーライ、オーライ」と言いながら後退の誘導を続け、被告人もそれに応じて後退を続けた。ところが、被告人は、その誘導の声が突然途切れたこととそのころまでに本件事故車の後退の進路が本件倉庫入口に向かつて左側に若干はずれて本件事故車の後部と本件倉庫入口左側の枠とが接触する危険を感じたためただちに制動措置を講じ、本件事故車をその後部から前記左側の枠に約数十センチメートル手前の地点に至つたとき停止させた。しかし、この時、葛西は本件事故車の後部と前記左側の枠との間に前記のとおりの状態で強圧され死亡するにいたつた。
以上のとおりの各事実が認められる。
2、このような本件事故において、被告人には葛西が運転手席からみえない位置である本件事故車後方で誘導しているのに漫然と後退した点に過失があるかどうかについて、まず判断する。
右認定の事実からすると、たしかに、葛西は運転手席からは確認しえない本件倉庫入口の向かつて右側付近および本件倉庫内に位置して誘導をしていたものである。しかしながら自動車を後退させる場合、助手をして誘導させるのは、運転者が自ら後方の安全を確認することが困難なためであり、したがつて、後退する場所の状況如何によつては、運転手席からは必ずしも確認しえないような位置に助手を配置して誘導させることも、かえつて後方の安全確認のために有効な場合も少なくなく、このような場合に、助手にとくに危険がふりかかるような事態の発生が予見されない以上、助手を運転手席から必ずしも確認しえない位置に配置して誘導させたとしても、これをもつてただちに運転者としての注意義務を尽さなかつたものということはできない。そして助手の誘導によつて自動車を後退させる場合、自動車の運転者としては、特段の事情がないかぎり、助手自身の安全は助手自らが確保して誘導するものと期待することは助手本来の職務に鑑みて当然許されるものと解される。これを本件について考えてみることとする。まず第一に前記認定の事実によると本件倉庫入口の幅は三・三メートルで、その左右に幅約〇・五メートルの柱状の枠が約〇・五メートル突出しており、本件事故車の車体の幅は二・四五メートル、車体の長さは七・六四メートルであり、しかも本件倉庫入口の左右には、本件倉庫から約四メートル南寄りの位置に幅約一メートルの排水溝がもうけられ、その排水溝は左右に約五メートルはなれていたにすぎないのであるから、本件道路から旋回しつつ後退して、本件事故車を本件倉庫内に入れるのはそれだけでも技術的にかなりむずかしいばかりでなく、ことに左旋回して後退する場合、前記認定のとおり、運転手席が右側にもうけられ、また運転手席後部の窓からの後方安全の確認が不可能であつた本件事故においては、運転手席からは見とおすことの困難な本件倉庫入口に向かつて右側付近の安全の確認に大きな不安が残ることになるのは明らかである。しかも、本件倉庫入口に向かつて右側付近には、前記認定のとおり、電柱が設けられていたのであるから本件事故車がこれに接触する危険もあつたというべきである。してみると、葛西がまずこの方向に重点を置いて誘導をし、次いで本件倉庫内における安全を確認する必要があつたのであるから、同倉庫内に入つて誘導を続けたことは、誘導方法として不適切ということはできない。また本件倉庫入口付近の状況や本件事故車の後退の際の時速一ないし二キロメートルというゆつくりした速度や進路などを合わせ考えると、葛西がこのような誘導方法をとつたとしても、葛西に危険がふりかかるような状況にあつたとは認めがたい。一方、証人内川武、同赤城鉄雄および同浅井純輔の各証言によると、葛西は本件事故の発生した日にはじめて被告人の助手として本件事故車に同乗したものであるが、年令は一七歳で、助手としての経験は約二週間であつたとはいえ、ひととおり助手に必要な訓練を受け終り、かつ本件事故の発生する直前、被告人が本件倉庫に隣接する前記営業所第一および第二倉庫内に本件事故車を後退させた際にもなんら支障なく後退の誘導をしていたことが認められる。そして葛西には本件倉庫における誘導についても、本件事故直前にいたるまでは、誘導者として、特段不適切な点が見当らなかつたことは、前記認定の事実にかんがみて明らかである。したがつて、被告人が、葛西自身の安全は葛西自らが確保して誘導を続けているものと期待したのもこれまた当然であつたといわなければならない。以上の諸点を合わせ考えると、被告人には前記の点について過失がなかつたものといわざるをえない。
3、次に、被告人は、後退するに際し、ハンドル操作がおくれて安全に本件倉庫に進入しえない状況になつたのにかかわらず、ただちに停止する措置をとらなかつた点に過失があるかどうかについて、判断する。
前記認定のとおり、本件事故車の後退の進路が本件倉庫入口に向かつて左側に若干はずれ、しかも被告人は、本件倉庫入口左側の枠からは数十センチメートルの距離に本件事故車の後部が接近するまで後退を停止しなかつたのであるから、本件事故車の後部と前記左側の枠とが接触する危険があり、一方被告人としてもこのような本件事故車の進路などにかんがみてもつと早期に本件事故車を停止させることができたであろうことは否定できない。しかしながら、葛西は、本件事故車の後部と前記左側の枠とが右の距離近くに、接近するまではなんら異常なく「オーライ・オーライ」と声をあげて誘導を続けていたものであり、しかも自動車が倉庫入口に接近した後は、本件事故が発生する直前に本件倉庫に隣接する第一および第二倉庫内への後退を誘導した際と同様に、本件倉庫内に入つて誘導を続け、被告人もそれを認識したうえ、その誘導にしたがつて後退を続けたのであるから、このような状況のもとにおいて、本件事故車の後部が本件倉庫入口に至近距離まで迫つているのに、葛西が本件事故車の後部と本件倉庫入口左側の枠との間に突然立ち入ることを予見するなどということは不可能であつたといわなければならない。そして、その他本件事故車の後部と、本件倉庫の入口の枠との間に人を狭圧する危険があることを予見すべきであるような事情もなんら見当らない。してみると、被告人のハンドル操作がおくれ、本件事故車の後退進路が若干本件倉庫入口に向かつて左側にはずれたうえ、本件事故車の後部が本件倉庫と至近距離に接近するまで、被告人が本件事故車を停止する措置をとらなかつたものであるとしても、これをもつて本件事故発生についての被告人の過失と言いえないことは明らかである。
四、結論
以上説示したとおり、本件公訴事実はけつきよく犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対して無罪を言渡すべきものである。
よつて主文のとおり判決する。